思い出日記

毒親 元クリスチャン 元精神科看護師 

看護学校の春

看護学校も職場にも二度目の春がやってきた。無事進級最初は30人位いたのに5~6人は辞めていた 働きながら学業やはり辞めたくなって帰るとこがあり高卒達は他の道を探せるか中卒組には後がない 人は人私は私 羨ましいが羨やんでもその人にはなれない 諦めの春だった そしてうちの職場にも新人が入ってきた。今回は高卒二人 かなり個性豊かなメンツにタジタジ 1人は今で言うDQNくずれもう一人は高等看護学校を落ちて取り敢えず准看とってな感じの人 年は上学校も出ているから私が二年でも年下だからお前子分 そんなポジションを与えられた。でもね親がちゃんとしてる人には手は出さない 親に目をつけられると危うくなる自身の立場をとことこよく知ってるあざとい子だったよ いずれそんな態度も職場で発動しだし婦長の目に止まった

学生全員呼び出し 皆の前で一年名指し なんで二年を使う?と問われ

年下だから とのたまう 婦長怒った怒った ばかたれが二年は先輩 歳は関係ないと庇ってくれた

え?関係ないの?そうなの?それでいいんだ なんかやたらホッとしたのを覚えているよ 

ちなみにこの後輩卒業には至らず。

一人立ち

毒父から離れて毎日仕事に勉強に忙しくしていた 職場の同級生は五人高卒二人中卒三人 と言ってもこの頃はもう高校は当たり前の準義務教育ましてや親の後ろ楯なく金もなくひたすら夜露がしのげ食べるものがあれば由として生きていくと思っていたが でもほれそこは多感な時期朝六時からの仕事で窓の外から高校生徒の苦労知らずの笑い声 惨めさを呼び起こすのには十分だった あんな親でなかったら と何度も何度も

そんな中一人の女の子が入院してきた 色白で聡明そうな年の近い女の子 可愛い服を着て入ってきた。

ここで病院紹介 外来はなく大学で治療しくつして対処療法しか出来ない余命も僅かな人達を主に受け入れる今で言うホスピス的な病院

生きて出る人は一握り いつも霊安室の掃除をしていた

でも若い子の入院は珍しく高い個室にその子は入った

病名は小児がん あの時代癌は命取り助かる人の方がまれ この子も死んじゃうの?まだまだ学生の私 なんとも複雑 全てに恵まれてても辛いことってあるんだ その子は賢く地域では有名な学校を受験する予定だった 全てが終わる前に受験したいと願ったらしい 衰える体力と戦いながら勉強していたが ある日 学校から帰って夜の仕事に入った時 もうその子は居なくなってた

推して知るべし 召された

私は悲しみと同時に親がいても辛いことは沢山あるんだ あの子は生きたかった 元気なら窓の外の学生のように笑いっていたかも知れない それを気に何かが替わった 拗ねていてもなにも始まらないな まだ私は生きている 生きたくても生きれない人達を間近に感じ 真面目に生きよう 死にたくなっても自ら死なない ひっそりと生きていこう 朝の窓の外側が気にならなくなっていたのは不思議な感覚だった。

毒父との思い出

私の父親は毒親 まさにグズ 好きなことは人が怒った顔と言い 煽りの名人 相手が怒ると楽しくなると豪語 でも気は小さく女子供には強かった奴 クリスチャンの頃 親をそんな風に言ってはいけないと言われてずっとぶつぶつしながら過ごしてた。最近クリスチャンを完全に辞めたのでこうやって書けるようになった。

父のグズはまず女はおもちゃ 子供の頃父親が「お前が大人になったらアジアに売春ツワーに行く旅費をくれるのが親孝行」と言われて意味のわかんない私は わかったよて笑顔で答えた。少し大きくなり意味のわかるようになるとなんて奴としか思えなくなってた。「また女の子は大きくしても人に取られる いいことない」といい放っていた。それでも自我は芽生える 反抗すると母を殴る お前のしつけが間違ったから俺の言うことを聞かないと いっそ自分が殴られた方がましよ だから中学出たらこの家を離れる計画を密か煮立て実行した。私は中卒で病院の寮に入り准看護師になるべく働きながら学校にいくことにした。家をでる朝 寝ていた布団を丸めバック一つで見送りは母だけ優しい母をいつか迎えに行こう 子供心に誓って仕事を始めた。病院の寮食事は病院食それでもお腹いっぱい食べ一年で身長が10cm伸びたのには驚いたのと同時にやはりあそこは異空間だったんだと抜けれたんだと嬉しかったもんだ。でも離れていても金の無心だけはちゃっかりきていた。父も母も兄もお金を求めてくる。私のわずかなお給料もほとんど残らない月もあっもんだ。こんな話し教会でしても許さなければならない 汝の父母を敬え んー無理だよね 父の屑っぷりはまだまだあるけど今日をやめたここまで 余り思い出すと眠れなくなるから 後は続きと言うことて今日はおしまい